力の行使
こんにちは。コーチングオフィスMISSIONの浅川孔明です。
世界情勢において軍事侵攻というショッキングな出来事が起きてしまいましたね。
ここのところ、どんなことを書けばいいのか、何を書いても「今はこれじゃない感」があります。
ですが、自分が今までのようなブログを書くことに戻るためにも、自分が受けているショックを認めつつ、
今日は「力の行使」というテーマで書いてみたいと思います。
良かったらご一読いただければと思います。
目次
力の行使
お互いの立場がぶつかり合う時、お互いが相互尊敬をもって、相互理解の意思と気持ちを持って、共感的姿勢で、開かれた心で話し合い、表現しあって、お互いが必要としていることが十分に満たされた解決策に到達できることが、いちばん理想です。
いちばん理想ですが、状況によっては、例えば、相手にはコミュニケーションを取る気持ちがない、差し迫った危機状況で時間的余裕がない、などで対話の機会が作られないことで、解決のために力の行使がなされるということが起こります。
このときの「力の行使」には、
・懲罰的な力の行使なのか
・防御的な力の行使なのか
という2つの側面が生まれます。
この2つの背景にあるものをそれぞれ観ていってみます。
懲罰的な力の行使の背景にあるもの
懲罰的な力の行使の背景には、
相手に悔い改めさせて、状況を正さねばならない、という思考があります。
つまり、自分の思い通りに相手を矯正させるために、力を使います。
その目的は、
・相手が間違いに気づくまで苦しめる
・自分の考えが間違っていたと後悔させる
・変わらせる
というものがあります。
しかし、残念ながら、この試みは相手に怒りと敵意を生み出す可能性が高く、自分の思い描いた結果どおりにいかないことが容易に想像できます。
防御的な力の行使の背景にあるもの
防御的な力の行使とは、被害や理不尽などを防ぐことが目的です。
相手の命や、相手の権利を守るために力を行使します。
車に轢かれそうになった子どもを助ける、
暴力を振るわれている友達の助けに入る、
そういったことに力を使うことが防御的な力の行使です。
ですが、気を付けなければならないのは、この防御的な力の行使であっても、
ひとつ間違うと懲罰的な力の行使になりうる点には少し注意が必要です。
それはどういう時かというと、
道路に飛び出した子どもに、「こんな危ないことしちゃだめでしょ!」と言って頬を叩く、という力の行使を加えてしまった場合、この行為の根底には「相手に悔い改めさせて、状況を正さねばならない」、「相手を矯正させるために」があるということです。
これは、「懲罰的な力の行使」に当てはまってしまいます。
道路に飛び出してしまう子どもは、「無知」なだけで、「知らない」を「知っている」にしていくのは、懲罰ではなく、教育の役目になります。
このように、相手の何らかの「無知」によって防御的な力の行使が行われる、という背景が見えてきます。
何らかの無知というのは、
・(相手が)行動の結果に対する想像が足りない
・人に危害を加えずに必要としていることを満たせるのかが想像つかない
・相手は罰せられるべきだし、自分にはそれをする権利がある、と信じ込んでいる
・声を聴いた、指示された、などの妄想
などです。
防御的な力の行使では、守るべき命や権利だけに意識を集中して力が使われることが大切です。
まとめ
力の行使には、「懲罰的な力の行使」と「防御的な力の行使がある」、ということです。
懲罰的な力の行使には、自分の思い通りに相手を矯正させよう、という根底があり、大きな代償が必要となります。
防御的な力の行使にも、守るという側面以上に、相手を懲らしめるため力の行使にエスカレートしてしまう危険性も含んでいます。
お互いが懲罰的な力の行使に進めば、そこには憎しみと怒りの連鎖しか残らないでしょう。
世界がより良い方向に進化していくためには、何が必要になってくるでしょうか。
どうしても力の行使が必要となるのであれば、防御的な力の行使に限られることが求められると思います。
なるべくなら力の行使のない世界であって欲しいですし、
どんな状態にあっても、力によらないで互いに話し合って、認め合って、解決し合っていける世界であってほしいと願います。
そのためには、まず自分が、そういう風に日々を過ごしていきたいと改めて感じています。
いかがでしたか?
みなさんのなかで気になった部分はありましたか?
何か一つでも自分の人生のヒントに持ち帰ってもらえたら嬉しいです。
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